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R.フィッツロイ艦長およびダーウィン等のサンタ・クルス河遡行(ダーウィンの日記) [あれこれ]

R.フィッツロイ艦長およびダーウィン等のサンタ・クルス河遡行(ダーウィンの日記1834年4月18日から5月8日)

ビーグル号は1831年から1836年までの航海のうち、1834年5月までの主な時日を南米大西洋岸、および比較的短期間ですが南米南端部の島々ティエラ・デル・フエゴで、そしてさらにフォークランド諸島でも一時過ごしました。基本的には測量の任に当たっていたわけです。 その後大西洋側での当面の全ての測量を終えたビーグル号は、1834年5月半ばから6月上旬にかけて、マゼラン海峡に東の入り口から入り、それから海峡そのものを忠実にたどるのではなく、その分枝ともいうべき水道を特に選んで南西方向に通り抜けることによって、太平洋側に出ます。
そのマゼラン海峡に入る直前の時期、1834年4月18日から5月8日にかけて、フィッツロイ艦長と、ビーグル号に博物学者(自然史学者)として同乗していたダーウィンを含めて総勢25人の探検隊が、3艘のボートに分乗して、パタゴニア南部の当時まだヨーロッパ人にとってはほとんど人跡未踏の地であったサンタ・クルス河の探検を行います。
この探検、結果としては河の源頭部まで行くことが出来ず、ほとんどの参加者はあまり満足なものとは考えなかったようですが、ダーウィンは谷を長く通ったことによってパタゴニアの地層の断面をよく見ることができたとして一定の評価を行っています。

[地図1]サンタ・クルス河を大西洋から西に遡って緑のマップポインターの地点まで..

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ここおよび以下の地図上の緯度・経度はすべてフィッツロイ艦長が記している値です。

[ダーウィンの日記: 1834年4月18日から5月8日まで]

(1834年4月)18日
朝、3艘のホウェール・ボートが艦長の指揮のもとに出発した。時間が許す限りサンタ・クルス河を探検するためにだ。前回の航海においてストークス艦長は30マイル進んだのだが食糧が十分でなく引き返さざるを得なかった。ただ、その時分かったことであったが、この大きな河の存在さえほとんど知られなかったのである。 私たちは3週間分の食糧を持ち、隊は25名からなっていた。インディアン[注]の大群をはね返せるよう全員十分武装していた。
[注] 現在では"先住民(indigenous inhabitants)"という呼称が普通ですが、ダーウィンは当時の流儀で"indians"と書いてますので、以下そのまま"インディアン"と訳しておきます。

強い上げ潮で天気も良く、私たちはよく進み、まもなくいくぶんかは飲める真水となった。夜にはほぼ潮の満ち干の影響を受けない所まで来ていた。この河は、私たちが最終的に到達した最高点においてさえほとんど縮小しない規模と外観を持っていた[注]。概して300~400ヤードの幅があり、中央部では17フィート[5.18m]ほどの深さがある。多分そのもっとも顕著な特徴は常に急流であるということであり、流れは全コースを通してすべて4~6ノット[時速7.4~11.1km/h]の速度である。水はきれいな青でわずかにミルク様であり、期待されるほどは透明でない。海岸や周辺の平原にあるような小石の川床の上を流れる。谷は西向きのかなりの直線となっていて、河はその中を曲がりくねるが、その谷のほうは幅5マイル[9.3km]から10マイル[18.5km]まで変化し、境界のその先は300~500フィート[91.4~152.4m]の高さの完全に水平の平原となっている。
[注]この4月18日から5月8日までの日記の部分はサンタ・クルス河の探検が終わってビーグル号に帰り着いてから書かれているのは明らかです。

[地図2]サンタ・クルス河口(ビーグル号は4月13日に河口の内側に入り、探検隊が出ている間に修理を行います; サンタ・クルス河は地図に見える左の分支です)..

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19日
かなり流れが強いので漕ぐことも帆走することもまったく不可能で、3艘のボートのうしろを縛り合わせてそれぞれに2名を乗せて、残り全員は岸をたどった。すべての配置は作業を容易にするのにとても良かったのでそれを述べてみよう。隊は、全員のことだが、2交代に分割され(はじめは3交代だった)、そのそれぞれが1時間半交代で引っ張るのであった。各々のボートの士官もその乗組員とともに同じ食糧を食べ同じテントに寝るのであった。それで各ボートは他からはかなり独立していた。日没後、最初に見つかる茂みのある平地が夜の宿泊地として選ばれた。ボートの乗組員が料理人役を交代で行った。ボートが引っ張り上げられるとすぐに料理人役は焚き火を起こし、他のふたりはテントを張り、舵取りはボートから物品を手渡した。残りの者はそれら物品をテントに運び込み焚き火の木を集めた。このようにして半時間のうちに全てがその夜のための支度が出来るのであった。乗組員2人とひとりの士官による見張りが常に行われ、その義務はボートを守り、焚き火を絶やさず、インディアンに注意することであった。隊の各人が毎夜1時間の見張りを行った。
この日私たちはほんの短距離を遡行しただけだった。というのはこの部分には多くの島があってトゲのある茂みで覆われており、それらの間の水路が狭いので、このふたつのことによって私たちはだいぶ妨げられたのである。

20日
私たちはいくつか島のあるところを通り抜け、[遡行の]作業に本腰で取りかかった。通常の労働で、それは本当に重労働であったが、直線距離にして平均でわずか10海里[18.5km]しか進めなかった。多分15か20海里は進まねばならなかっただろう。
少し遠い所に大きな煙が見え、骨やその他のウマの兆候があった。そのことにより私たちはこの地帯にインディアンがいることを知った。
泊まる場所から先は完全に未知の土地[terra incognita]であった。というのはそこから[前回の航海の時]ストークス艦長は引き返しているからだ。この日(王の印の付いた)古いかぎ竿が拾われた。ボートの乗組員のひとりが、前回の航海の時にこの河に来たのだったが、それはその時になくした物だということを覚えていた。だからこのかぎ竿はパタゴニアに6、7年横たわっていてその本来の家であるビーグル号に帰ったことになる。
この夜もその前の晩も厳しい霜があった。隊の何人かは風邪をひいた。

21日
午前中、ウマの一隊の足跡と長い槍つまりチューサを地面に引きずった形跡が見つかった。かなり新しいので、一般的に考えればその者たちは夜の間私たちを偵察していたに違いないと思われた。そのすぐ後で、男たちやイヌや子供やウマの新しい足跡が河岸や水の中にある場所に出くわした。河の向こう側にも最近の足跡と焚き火の跡があった。明らかにこの場所はインディアンが徒渉する所であったが、それは難しい危険な通路に違いなかった。グレゴリー湾[マゼラン海峡北岸にある湾]のインディアンと暮らしているスペイン人が彼等はガウチョが"ア・ピロタ"と呼ぶ方法で徒渉するのだと教えてくれたことがある。つまり皮革の隅々を結び合わせて一種のカヌーを作りたいていの場合ウマの尻尾につかまって引かせるのだということだ。1、2マイルほども過ぎるとその後は何日も人やウマの形跡がなかった。しかし背後には新たな煙が見えたので、このことにより、私は、彼等がこちらを見ていないこと、そして偶然1、2日の違いで互いに近くを通過したのだと考えている。そのスペイン人はサンタ・クルスにはまったくあるいはほとんどインディアンがいないと思うと語ってくれた。多分、彼等は時々ポート・デザイアを訪れる小さな部族と同じなのだろう。その馴らされたウマが河の上流で見られたというわけだ。
一頭のグアナコが水の中で死んでいるのが見つかったが、それは浅い場所であった。その肉はかなり真新しく、頭の皮を剥いでみると打撲が見つかったので、私はそれがインディアンに投げ球で撃たれ水を飲みに来て死んだのだと思う。その最後がどうであろうと、若干の疑問のまなざしの後、塩漬け肉よりはましだということが多数の投票で決まり、すぐに切りさばかれて夕食となった。

[地図3]サンタ・クルス河(緑のマップポインターの指す所はこの日の記事にある先住民の徒渉地点の位置)..

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22日
この地帯は相変わらずで極めて面白みに欠ける。(自然の)造作のおしなべての相似性はパタゴニア全体におけるとても顕著な特徴である。乾いた砂利の平らな平原が同じような発育不良の矮化した植物を支えている。谷には同じようなトゲを持つ茂みがあり、そしてどこでも同じ鳥や昆虫を見る。ダチョウ[注:レア;rhea]は珍しくない、だが極端に気が荒い。しかしグアナコはその固有の地域にいて、この地帯にはそれが多い。50から100頭の群れがたくさんいた。また、500頭と考えられる群れをひとつ見た。 ピューマあるいはライオンとコンドルはこれらの動物を追い捕食する。ピューマの足跡は河の土手のほとんど至る所に見ることが出来た。いくつもの首がちぎれ骨が折れてかじりとられたグアナコの遺骸はそれらがいかにその死に出会ったかを示していた。
河の土手そのものも、それに流入する澄んだ細流のそれも、より明るい緑色[の植物]で生気づけられるということは滅多にない。不毛の呪がこの土地の上にある。水そのもの、それは小石の床の上を流れるのだが、そこには魚が住まない。そういうわけだから水鳥がいない。例外としてはわずかのガチョウとカモだけだ。

23日
正午まで休息をとった。武器を掃除し、衣服や靴を繕うためだ。後者はすでに重労働の兆候を示し始めていた。

24日
昔の航海者たちが知らない土地に近づく時と同じように、私たちは最も些細な変化の兆しを調べ観察した。流木の幹、粗い離れ岩、これらはあたかもアンデスの石ころだらけの稜線に生育する森を見たかのように歓呼された。しかしもっとも期待出来たのは、実際に真の兆候であったのだが、それは常にほぼ同じ所にとどまる厚い雲の堤であった。これははじめ山脈そのものと取り違えられたのだが、それはいくつもの氷の頂上によって凝縮された雲なのであった。
グアナコが仕留められ、それは自分の胃袋に[携帯されて来た]死肉を強制して味わわせることの出来なくなった者たちによって多いに歓呼されたのであった。

25日と26日
この日はじめていくらかの面白い(自然の)造作を見つけた。ここの平原は溶岩原が上に載っており、それはある遠い昔これら平原が大洋の底で形成された時アンデスから注ぎ込まれたものである。さらに河を遡るとそれは300フィート[91.4m]をこえる厚さとなり、しかもその源[アンデス]からの距離は大きいのである。
[欄外に鉛筆書き]流れの作用 谷の起源
これまで知られているアンデスの最南部の火山岩は何百マイルも北にあり、チロエの島からそれほど遠くない。溶岩には多くの小さな泉が出来ている。
[欄外に鉛筆書き]泉の原因

ここの谷はよりいっそう緑があり、私はティエラ・デル・フエゴの多くの植物を認めた。グアナコはごつごつした崖をその生息場所としていた。
多くの場合に景観が全く地層に依存するというのは興味深い。いくつかの谷はサンティアゴのそれにすっかり似ていて、もし熱帯の暖かさを付け加えることが出来たとしたら私が[ベルデ岬諸島のサンティアゴで]以前よく行っていた地点を見つけようとして見回したことであろう。

[画像]溶岩原が上に載る谷を行く(by C.Martens;同行した画家)..
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27日
河の底部は大分狭くなり故に流れはより急になった。一般に6ノット[毎時11.1km/h]ほどである。水流の途中に溶岩の巨大な塊が[いくつか]あり、それらが遡行を労多くまた危険なものとしている。昨日は1艘のボートの側面にふたつ穴が開いたが岸にあげて修理され、それ以上の損害はなかった。
私はコンドルを撃った。それは翼の端から端まで8.5フィート[2.6m]で、嘴から尾まで4フィート[1.2m]あった。これは雄大な鳥で、急峻な崖の尖塔にとまっている時、スルタンのように眼下の平原を見ている。私はこの鳥は垂直の崖以外の所では見つかっていないと思う。さらに河を遡って溶岩が河床から800~900フィート[244~274m]も上にある所で私は本格的な繁殖場所を見つけた。10から20羽のこれらコンドルがそのとまっている所から重々しく飛び立ちそれから荘厳な円を描いて飛び去るのを見るのは素晴らしい光景であった。

28日
革で結び合わせられた3本の木を見つけた。河を流れて来ていたものだ。人の再出現のはじめの兆候だ。

29日
高みから私たちは喜びをもってコルディジェラ[アンデス山脈]の雪の頂上に向かって歓呼を叫んだ。それらは時々そのほの暗い雲の覆いから覗いていたのであったが。

30日および5月1日
相変わらずゆっくりと進んだ。艦長の世話役がグアナコ2頭を撃った。人がそれをボートに運ぶために到着する前にコンドルや死骸を食べるいく羽かの小さなハゲワシが一方の骨をきれいに白くついばんでしまっていた。これが約4時間でのことである。グアナコは多分170か180ポンドはあった。人が着いたとき、ただ2羽のコンドルがいて、いくらかの小さなハゲワシが肋骨の中にいて骨をついばんでいた。

[画像]4月30日のスケッチ(C.Martens)..
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5月2日と3日
河はこの辺でとても曲がりくねっていた。多くの部分で粘板岩や花崗岩の大きな塊がある。それは以前の混乱の紀にアンデスから来たものだ。これら両者は悲しくも私たちの前進を妨げる原因となっている。だが私たちはコルディジェラ[アンデス山脈]の長い南北にわたる領域をすっかり見て満足した。それは高く堂々とした障壁をこの平坦な土地に形づくっている。山の多くは急峻で尖った錐体であり、雪を頂いていた。私たちはそれらを痛恨の念をもって見た。というのはそれらに私たちが到達する時間がないことは明らかだったからだ。私たちはその尖塔のひとつに立ち下の平原を見下ろすことを希望していたのだが、そのかわりにその自然と荘厳を想像するにとどまらざるを得なかった。

[画像]アンデス遠望(C.Martens)..
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[画像]3艘のボートとアンデスの遠景(C.Martens)..
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これら2日間に私たちはウマの兆候やインディアンに属するいくつもの小さな物品を見た。それらはたくさんのダチョウの羽や、マントの一部や、先端の尖った杖である。ウシの皮革でできた紐が見つかったことからすると、これらインディアンは北から来たに違いない。その者たちは、より海岸に近い所で私たちがその煙を見た者たちとは多分関係がないだろう。彼等は、夏の間、新たな場所で狩りをするためにアンデスのふもと沿いに旅をして南下するのだろう。
グアナコが過剰なほどに豊富なので、私は始めインディアンが常にこの河の堤に住まないことに驚いた。彼等がこの平原に頻繁に来ないのはその石ころだらけの性質によるに違いない(地帯全体が砂利床である)。そのことに蹄鉄を打っていないウマは耐えられないわけである。だが、2ヵ所において、それはまさしく中心的な部分であるが、私はふたつの石の積み上げを見つけた。それは偶然にそのように寄せ集まったものではないと思われる。それらは最も高い溶岩の崖の出っ張った地点に置かれていて、ポート・デザイアでのそれと似ていた。だがより小さな規模のものだ。それらは人の骨を覆う[注:墳墓]より以上のことには十分でなかっただろう。

[地図4]サンタ・クルス河(2日から3日にかけてウマの足跡などを見たという場所の位置)..

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4日
艦長はこれより先へはボートを進ませぬということを決定した。山までは20から30マイルの距離があって河はかなり曲がりくねっていた。その規模と深さはほとんど変わっていないようだった。その流れは同じように強かった。土地と(自然の)造作は同様に興味を惹かなかった。これら全てに加えて私たちの食糧は欠乏しつつあり、ここ数日、ビスケット支給は規定量の半分となっていた。この半分の量というのは、実際は十分なのであったが、重労働の後ではとても不快なものであった。それを試したことのない者だけが軽快な胃袋と消化のしやすさということを叫べるであろう。夕方の会話がすべて食物の質や種類ということに向かって行くというのはとても滑稽なことであった。

艦長と大人数の隊が2、3マイル西に向かって歩き始めた。私たちは沙漠の平原を横切った。そこはサンタ・クルスの谷の源頭を形成している。だが山脈の基部を見ることは出来なかった。北側には溶岩の平原の高みに切れ目があり、あたかも河の谷のようであった。それは多分サンタ・クルスの主流がその方向に曲がっていて、山の連なりの東斜面を多くのマイル流れているのだろうと考えられた。私たちはコルディジェラ[アンデス山脈]に対し分かれのまなざしを送った。この部分が他のヨーロッパ人の眼に触れことは多分ないのだろう[注]。そしてテントに帰った。最も遠い地点で大西洋から140海里[259.4km]そして太平洋の最も近い入り江から60海里[111.2km]まで行ったことになる。
[注] 実際は18世紀後半にアントニオ・デ・ビエドマという人がこの近くに来て源頭部の湖を見ています。

[地図5]サンタ・クルス河(マップポインターの指す地点が到達した西端)..

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(マップポインターの地点はそこから直線距離10kmあまりでアルゼンチン湖東岸に到達という場所でした。)

5日
日の出前に下降を開始した。流れをかなりの速さで飛ぶように下った。概して言って時速10海里[18.5km]の速度であった。労力の多かった遡上に比べてなんという相違であろうか。5日半かけて登ったところをこの日1日で達成した。多くの領域を通るので鳥や動物をあたかも一堂に会するかのようで、それらがずいぶんと多めに見えた。

6日
同じように5日半の遡上部分を下った。気候は山脈近くとは明らかに大分異なる。そちらではずっと寒く、風が吹き、雲が多い。

[地図6]サンタ・クルス河(最西の到達地点(マップポインターの指す場所)から下降)..

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7日
真水の終わる所に泊まった。ひと張りのテントを持った隊がいくらかのグアナコを撃つために別行動をとった。

8日
船に正午少し過ぎに到達した。ビーグル号はマストを立て、新たに塗装されていて小型快速船のように快活であった。
ほとんど誰もがこの探検には不満足であった。ずいぶんの重労働、失われた多くの時間、ほとんど何も見るものも採るものもなかったというわけだ。しかしながら幸運には感謝せねばなるまい。常に晴れた乾燥した天候と青空を楽しむことが出来たのだ。私にとってはこの巡行はかなり満足のゆくものであった。パタゴニアの巨大な最近の地層のすぐれた断面を見ることが出来たのだ。

[地図7]サンタ・クルス河口(ビーグル号はこの河口の内側にあって修理・塗装を終え、太平洋側へ向かう準備を整えていました)..

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[参考画像リンク1]アルゼンチン湖からのS.クルス河 http://www.panoramio.com/photo/60991
[参考画像リンク2]S.クルス河中流部 http://www.panoramio.com/photo/1811082
[参考画像リンク3]フィッツロイ峰 http://www.panoramio.com/photo/127163

[画像;拡大出来ます]フィッツロイ峰(3375m; 参考画像リンク3から)
127163.jpg
(なおフィッツロイ艦長およびダーウィンたちはここまでは近づいてはいません。フィッツロイ峰とは、1877年、F.モレノによる命名。)

[参考画像] フィッツロイ艦長(Robert FitzRoy; 航海中の1835年から大佐)
PGKING1838RF.jpg
1831年から1836年2月まで士官候補生としてビーグル号に乗っていたP.G.Kingが1838年に(おそらくオーストラリアで再会した時に)描いたもの。P.G.Kingはビーグル号に乗った当初は年齢14歳。




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palette

さとふみさん、こんにちは!
私のブログをご訪問くださってありがとうございます。先日のダーウィン展以来、ダーウィン大好きですが、こんなに詳しく書かれているブログがあろうとは!また読ませていただきますね。
by palette (2008-07-08 18:50) 

えれあ

こんにちは。
これは面白いですね。気になるところを探しながら読んでみたいと思います。
by えれあ (2008-07-08 19:15) 

まるまる

いつも拝見しております。ゆっくりゆっくり何度も読みたいブログです。勉強させて頂いています。
by まるまる (2008-07-08 21:41) 

チヨロギ

こんばんは。ご訪問ありがとうございました。
ダーウィンの日記がブログで読めるなんて、すごいことです。
そういえばダーウィンの姉は、彼がイギリスに送ってきた日記を読んで、
そのスペリングミスをいちいち手紙に書いて指摘していたらしいですね^^
(『フィンチの嘴』に、そう書いてありました)
by チヨロギ (2008-07-09 00:39) 

さとふみ

niceを押し、またはコメントしてくださったみなさん、ありがとうございます。これからもよろしく..
by さとふみ (2008-07-09 08:08) 

pooh_mama

ご訪問ありがとうございました。
ダーウィンのこと、もっと勉強したいと思います。
by pooh_mama (2008-07-09 10:43) 

kaoru

こんにちは。
大変ご無沙汰してしまいました。
また色々とお勉強させて頂きたいと思っていますので
これからも宜しくお願い致します。
by kaoru (2008-07-09 14:51) 

春分

今日はまたずいぶん進みましたね。
by 春分 (2008-07-12 11:34) 

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